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2013年5月24日金曜日

たらちね

先日、母が他界いたしました。

果たして、このブログに書くべきことなのかどうか、
よくわからないので、ちょっと躊躇していたのだが、
他に吐き出せる場所もないので、
ここに書いておくことにした。
何を書いたとしても、「自己満足」の日記なのだから
構わないでしょ?
別に誰に読んでもらいたいわけでもないのだけれど。
まぁ、一種のセラピーみたいなもんだな。

人の死に関することなので、当然ながら愉快な話ではない。
興味のない方は、読まれませんように。




母が亡くなったのは、入院先の病院で。
食道癌だった。
最初に癌と診断されてから、1年と3ヵ月。
呆気なく、と言えるほど急でもないが、
長く苦しい闘病だった、と嘆息するほど長くもない。
それでも、最期の1ヶ月は、
転がり落ちるような速さで衰弱していったので、
やっぱり、呆気ないなぁ、と感じているのが正直なところ。

癌のできた部位が気管のそばで、
切除するとなると声帯まで摘出することになる、という説明を受け、
母はそれを拒んだ為、外科手術は受けなかった。
声を失い、不自由な体になってまでも生きたいというほど、
生に対する執着がなかったのだ。
それで100%完治するという保証はないのだし。
そんな母の気持ちがよく理解できるのは、
きっと、驚くほど私が母と似ているからなんだろうなぁ。

外見は別として、頑固なところや、
外面がいいくせに人付き合いが苦手なところ、
見栄っ張りなところ、出不精なところ、一人の時間が好きなところ。
挙げるとキリがないくらい、似ているところが多い。
大切な人に伝えたい言葉を伝えられない、という
天邪鬼というか、意地っぱりというか、そんな性格も
母譲りなんだな。

つまるところ、結局、最期までお互いに
「今までありがとう」的な感謝の言葉や、思いのたけを
腹を割って伝えることはできなかった。
ま、それでいいと思っている。
けっして、仲のいい親子ではなかったけれど、
お互いの性格は、重々承知していたから、
言葉など必要ではなかった。
少なくとも私は、言葉ではない何かが通じ合っているのを
最後の2ヶ月、母の病室を訪れるたびに感じていた。

母が癌で亡くなったことは、ある意味ラッキーだったと思っている。
少しずつ死に近づいていく姿を見るのは、つらいことだけれど、
看取る方も、看取られる方も、それなりに心の準備はできる。
突然亡くなってしまったときのショックを考えれば、
その準備をさせてもらえたのは、幸せなことだ。

胃から栄養を取ることができない状態になってからは、
みるみると痩せていき、衰え、その姿をみるたびにショックだった。
確実に死へと近づいていっていることをまざまざと見せつけられた。
一番ショックだったのは、言葉を発せられず、
目の焦点も合わなくなり、現状を認識する能力を失ったとき。
ついに、コミュニケーションが取れなくなったときだ。

緩和ケア病棟の看護士さんは、家族に対するケアにも
気を配っておられるので、
「娘さんが来たことはわかってるんですよ」
と、気遣うように言ってくれたが、実際のところ、
母がどれほど外部認識の能力を残していたのかは定かではない。

間違いなく私のことが認識されたと確信している最後の場面は、
「じゃ、また来るね」と帰ろうとして、母の顔を覗き込んだときに、
頬の筋肉がピクッと軽い痙攣のように動いたこと。
笑おうとしたのだが、それが精一杯だったんだろう。

たぶん、その日の帰り道だった。
上弦の月がニコッと笑っている下を歩きながら、
母の人生について、考えていた。

楽しい人生だっただろうか・・・。
悔いは残っていないのだろうか・・・。
何のために生まれてきたのだろうか・・・。

もちろん私が、いくら考えた所で答えが出るわけないのだが。
よく似た性格を持つ娘の私なら、
母の心のうちを想像することができるはずだと思った。
そして、気付いた。
私の中に「母」がいる、間違いなく。
心の中に面影を抱くとか、そういうことではなく、
生物学的な遺伝子レベルでの意味合いである。
私の体の細胞のひとつひとつが受け継がれたものなのだ。

少し心が軽くなった。
私が生きてるかぎり、私の中に「母」がいるということ。
自分の頑固で見栄っ張りな性格を省みるとき、
その存在を私は感じ続けるだろう、ということ。




病院から連絡があり、駆けつけたときには
すでに呼吸も心臓も止まった状態だった。

想像していたより、悲しくはなかった。
その前日、まだ心臓が脈を打っていたときよりも、
よっぽど健康そうな顔をしていたものだから、
やっと苦痛から解放されてよかった、という思いでいっぱいだった。

「おつかれさまでした」

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