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2012年9月6日木曜日

悲しみよこんにちは

いろいろと波紋を呼んでいるようだね。

『エンドロール』のPV



それを見た感想・・・というのとは少し違うんだけれど、
なんか、いろいろ考えてしまったことがあったので、
オチも結論も無い話を、つらつらと。

PVは一回しか見ていない。
iPhoneの小さい画面で、しかも酔っ払った状態で。
そして、号泣してしまったのである。
夜中に布団の上で。
もう一度、音だけ聴こうとしたんだけれど、
そのまま途中で眠ってしまったみたい。
なにしろ、酔っ払っていたのでね。

明け方、はっきりと目覚める前のまどろみの中で、
とりとめもなく思考が溢れてくる。

なんだか、息苦しくなる映像だったなぁ。
「リリイ・シュシュのすべて」を思い出してしまったのは、
忍成くんが出ていたせいもあるけれど、
あの吐きたくなるような胸苦しさが、同質なんだろうなぁ。

映画はたくさん見たけれど、
時間がたっても覚えているのは、ハッピーエンドの物語なんかじゃなく、
グロテスクなもの、理不尽なもの、いびつなもの、ばかりだ。
目を背けたくなるものに、実は一番、心惹かれているのかもしれない。

そういえば、昨日の飲み会の席で、
「考えることが、生きること、ですよ!」などと、
偉そうな発言をしたことを思い出し、
穴に入ってそのまま消え入りたくなった。ハズカシ・・・。

そもそも「悲しい」という感情とは、なんなのだろう?
と、悲しみの起源について、思いを馳せてみる。

人間以外の生き物には、悲しいという感情はないだろう。
親兄弟が死んでしまっても、戸惑いはするだろうけれど、
悲しんでいるのとは違うよなぁ。

動物が生きていく上で、悲しいという感情は必要ないものだと思う。
本能的なものとは、次元の違う感情だ。

恐怖は必要だ。
自分の生命を脅かすものに対して、恐ろしいと感じることで、
近付かないようにして、身を守っているのだから。

怒りは、自分のテリトリーを侵す者を攻撃するための感情かな。

では、悲しみは?
悲しい気持ちになることによって、
私の生命は、何かから守られているのだろうか?
この悲しみは、私に何かを与えてくれているのだろうか?
わからないなぁ。

最初に書いたけれど、この話にオチはない。

で、シラフであのPVを見るのが怖いような気がしているのだが、
この“怖い”は、私自身を守ろうとする本能的なものなのだろうか。

2 件のコメント:

  1. 悲しみの感情に守られている実感は
    正直私にはないです。
    4年前に愛猫を亡くして、今でも悲しみに揺さぶられ
    翻弄され続けていますが、先だった猫は最期まで
    必死に生きて逝ったのみで、猫に悲しみの感情が
    見えたなら、こちらは生きていけないですよね。

    守ってはくれないけど、やっかいだけど、
    たぶん、人間にとっては
    必要なもの、無くさない方がいいもののような
    気もします。

    で、私のコメもオチは無く、
    その上、明け方恐ろしい津波の夢に
    うなされました。
    良くも悪くも影響大なプロモだと思います。
    体力と精神力が充分な時に観た方が
    いいかもしれませんね。
    なんか色々持って行かれました・・・。

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    1. >ちょきさん
      私の戯言を正面から受け止めてくださって、ありがとうございます。
      『エンドロール』は音だけにして、じっくり味わっています。

      美しいものに触れたときに、心を揺さぶられるような感動を覚える、
      あの感情と「悲しい」感情とは表裏一体なのだろうと思います。
      振り子運動のように、どちらか一方だけに振れることはできないのですよね。
      痛みも苦しみも引き受けないと、人生の頂からの絶景は見られないようになっているのかもしれません。

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